uruya’s diary

夏山登山とツーリング。冬は鉄分多め。

神々の山嶺(上)(下) / 夢枕獏

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

神々の山嶺(上) (集英社文庫)

神々の山嶺(下) (集英社文庫)

神々の山嶺(下) (集英社文庫)

中年エヴェレスト登山隊に同行していたカメラマン深町誠は、二名の死者をだして敗退した隊が帰国したあとも、ひとりカトマンズに滞在していた。カメラのファインダー越しに死んだ隊員が滑落する現場を見ていたことや、国内にいる恋人とのこじれた関係に思い悩みながら彷徨する深町は、あるとき立ち寄った登山雑貨店で、古いカメラを見つける。

ベストポケット・オートグラフィック・コダックスペシャル。ジョージ・マロリーが最後に使用していたカメラモデルだ。一九二四年、第三次イギリス遠征隊のアタックメンバーだったマロリーとアーヴィンは、最後に頂上直下にいることを目撃されたあと連絡を断ち、いまだに死体すらみつかっていない。彼らが登頂に成功したや否やは、世界登攀史上に残る最大の謎である。このカメラに入っていたであろうフィルムさえ見つかれば、その謎が解明されるのではないか─?
貧困にあえぐカトマンズの裏社会に立ち入りながらフィルムを探しはじめた深町は、その過程で、ピカール・サン─毒蛇─と呼ばれている男に接触する。現地人のようであるが、日本人のようにも見えるその男の風貌は、深町の記憶の奥底にあったものを呼び覚ました。

羽生丈二。山を優先するあまりに人間生活のすべてを投げ打ったかのような、孤高のクライマーである。その容赦のない言動から、天才的登攀技術を持ちながら山岳会からはじき出され、すでに過去の伝説となっている存在。年齢もすでに四十七になっている羽生が、まだ現役でネパールにいるとは…
いったん帰国し、羽生の周囲を調べ始めた深町は、しだいにカメラの謎よりも、羽生という男に強く惹かれていくようになる。そして羽生の目的を知った深町は、再度ネパールへ渡る。

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(幸村誠プラネテス』星野五郎の台詞)


だまされてるぞ、そいつぁツィオルコフスキーのついたウソだ。
20世紀初頭に宇宙旅行を夢見たおっさんが、それを叶える為に一発吹いたのさ。
大先輩は頭がいいから、自分の欲望を人類全体の問題にすり替えたんだ。たいしたおっさんだよ。
オレは宇宙に来たいから来たんだ。飽きたら去る。それだけだ。わがままになるのが怖い奴に宇宙は拓けねえさ。

読みながら終始頭にあったのは、上記『プラネテス』で語られた、宇宙を目指すエゴイストどもの姿だ。

「なぜ山に登るのか」と問われてマロリーは答えた。「そこに山があるからだ」
山があれば一番高いところへ登ってみたい。誰にでもある好奇心。あそこに立てばどんな景色が見えるのか?途中の苦しい、とかつらい、より、上に立ったときの満足感が大きい人種は山に登る。自分もそうだ。

しかし、そんな世界とはかけ離れた山、というのが存在する。これはもう自分などとは住む場所が違う。知識も経験も体力もある登山家が、ほんの少しのミスで、なすすべもない天候で、簡単に死んで行く。本書のモデルとなった森田勝も、長谷川恒男も、山で死んだ。植村直己はマッキンリーで消息を断ち、いまも山中のどこかに眠っている。片山右京パーティの遭難事故は記憶にあたらしい。一瞬一瞬が死と隣り合わせの、本来人間が入り込める場所ではない世界へ挑む人々。そんな彼らは、何を思って山を登るのか?夢枕獏は単純明快な答えを出した。

作中には二人の天才クライマーが登場する。山のためにすべてを投げだし、「ザイルパートナーが滑落し、一人なら生還できる状況。どうする?」という命題にノータイムで「ザイルを切る」と放言しドン引きされる協調性皆無な男、羽生。森田勝がモデル。対照的に明るく社交的で、常に輪の中心となり山に愛される男、長谷恒男。長谷川恒男がモデル。陰と陽の対極として描かれる彼らだが、このふたり、まったく同じ血が流れているのだ。誰も、やったことのない、ことをやる。なにを、犠牲にしても、やる。その強い決意だ。

さあここでつながった。プラネテスの話。
「地球はゆりかごだ」なんて吹いてみせたツィオルコフスキー。揶揄されながらも黙々とロケットを研究しつづけたゴダード。研究をつづけるために大量殺戮兵器ミサイルを開発したフォン・ブラウン。彼らは一様に、宇宙を夢見ていた。あの星空へ、誰も行ったことのないあの場所へ、行ってみたい。そのためなら、なんだってするさ。彼らの強い欲望と同じ種類のものを、羽生や長谷も持っている。誰もやったことのないルートで、あの高みへ、天にいちばん近い場所へ、行ってみたい。
ヒューマンドラマとして着地したプラネテスだが、夢枕獏は直球勝負だ。そんなエゴイストを、ありのままの、鬼気迫る姿として描き上げた。いやあ来たね。久々に背筋に来た。

最初はマロリーの謎に迫るミステリ仕立てで始まるストーリーだが、深町が羽生の人生に引き込まれていくにつれ、そんなことは脇に追いやれられていく(ちなみにマロリーの遺体は本作刊行後の一九九九年に発見されているが、カメラは見つからなかった)。著者が描くのは徹頭徹尾、羽生というクライマーの孤高の姿である。山のために生き、闘い、喰らいついていく、ストイックなまでの漢のありようだ。

読書をしていて、これはという箇所にさしかかったとき、その部分だけページが浮き上がって光っているように感じ、数分も目が釘付けになる場合がある。数年に一度あるかないかレベルの体験で、読書をする喜びのうちでも、もっとも大きなものだ。まだまだこういう小説に出会えるんだから、本はおもしろい。
最後にその部分を引用したい。単独登攀中五十メートルを滑落して片手片足を骨折。二十五メートル上のビバーク地点まで、残った手足と、歯を使って攀じり登り、奇跡の生還を果たした羽生の、手記の一部である。

(作中引用)


もう、何も、おれの中には残っていない。
気力とか、体力とか、言葉で言いあらわせるものだけじゃなく、言いあらわせないものまで全て、みんな、この攀りで使ってしまった。
そして、手に入れたのが、あとひと晩か数時間、生きてもいいという権利だ。
神が、とか、幸運が、とは言わない。このおれが、その権利を手に入れたのだ。

おれが、おれの足で、おれの手で、すべての力で。このおれが、山から、手に入れた。
どれほどの想いだ。覚悟だ。

「想え─」
戦慄した。